Music is Our Life

「……別に、ここに来るつもりなんてなかったんだけど」
 気がつくと足を向けていた音楽室。ひとり何をするつもりでもなく訪れたそこでこぼれたのは、誰に向けたのかも分からない、言い訳じみた言葉。
 何もかもうまくいっている、ついこの間までそんな風に思っていたのに、それは全部ただの錯覚で。
 ——何も見えていなかったのは誰だったのか。
 今更考えたところでどうしようもない、それは分かっているのに、とりとめのない思考は止まらない。ただ、活動休止、そのたった一言で、ひどくちゅうぶらりんな気持ちのまま放り出されて、私は今、きっと迷っている。
 はあ、という溜息と共に耳を澄ませば、開け放った窓の向こうから、遠く陸上部か何かのかけ声が聞こえる。心なしか、そこに活気が感じ取れるのは、きっと気のせいではないんだろう。
 そう、私たちはやり遂げたんだ。
 音ノ木坂はこれからも続いていくし、きっと後輩だって出来る。アウトラインだけ見れば、なんて素敵なハッピーエンド。
 だけど。
「こんなのって、ないじゃない」
 きっと、もう。ううん、ひょっとしなくても最初から、この場所は、μ'sは、ただの手段なんかじゃなくて、もっと違う……ああ、なんだろう。うまく言えない。でも間違いなく、もっと大切な何かなのは分かっている。
「ねえ、本当にいいの? 穂乃果」
 返事なんてあるわけもない、そんな問。
 あの日、あの時。
 どちらの気持ちも分かってしまった私は、にこ先輩を止めることしか出来なかった。でも、私だってここで終わってよかったなんて、そんなふうにはとても考えられない。
 ここから、この場所からもう一度始まった私の音楽は、まだゴールになんて辿り着いてないんだから。

「——愛してるばんざーい」

 誰に聞かせるつもりでもなかったその歌。
 これで最後と思って作った曲が繋いだ、奇跡みたいな日々。
 その始まりの時のように、自然と私の指は鍵盤を奏でていた。

「——ほら前向いて」

 ぱちぱちぱち、と。あの時と同じ拍手が聞こえ、思わずドアに目を向ける。
「いい曲じゃない」
「にこちゃん……」
 そう、そこにいたのはにこちゃんこと矢澤にこ先輩だった。それが彼女——穂乃果先輩ではなかったことに、残念なようなほっとしたような、複雑な気持ちが交錯する。
「まったく、花陽に聞かなきゃあちこち探し回るところだったわ」
 そんなことをぼやきながら入ってきた彼女は、ここが無人なら部室として乗っ取っちゃえばよかったじゃない、なんて物騒なこともぶつぶつ言っていたけれど、取りあえず聞かなかったことにしてあげた。……まあ、にこ先輩らしいけど。
「それで、どうしたの? わざわざ」
「どうしたって、そんなの決まってるじゃない」
 ふん、と小さく鼻を鳴らして。
「可愛い後輩が腑抜けてないか、このにこちゃんが見に来てあげたの」
 彼女はそう言った。
「えっと……本気で?」
「ほ・ん・き・よ! 何よ! ひとが心配してあげたのに! ……真姫はにこと似てるとこあるし」
「っ……」
 その最後の呟きは、本人にさえ言うつもりはなかったのか、慌てて今のなし、とかなんとか言っているけれど、私の方がもうダメだった。
 ——きっと、この行き場のない気持ちを、誰かに聞いて欲しかったんだろう。
「ねえ、にこちゃん」
「な、何よ!?」
「……そんなに驚かなくてもいいじゃない」
 だから私は、いつか花陽にしたように、自分のことを話していた。




「……それで、ね」
 私の音楽はもう終わってるってわけ——あのときと同じ言葉を口にして、それから。
「そう思ってたんだけど」

 思わずもらしてしまった苦笑を誤魔化したくなって、鍵盤をひとつ爪弾く。
「……ねえ、にこ先輩」
 あえて『先輩』と、そう呼んでみる。わずかに声が震える。
「私は」
 けれど。
「ホント、ばかね」
 続けようとした私の言葉を遮った彼女は、いつもと違う、力の抜けた優しい表情をしていて。
「アンタの音楽が終わってるなら、それを歌ってるにこたちは何なの? それくらい分かるでしょ」
 だいたいねえ、とさらにその言葉は続く。
「あんな詞書いちゃうひとが、音楽を諦めてるなんてあるわけないじゃない」
「……にこ先輩」
「それでも不安だって言うんなら、いいわよ、にこが保証してあげる。大丈夫よ真姫、あなたは音楽と生きていく。ずっと、ね」
 捨てようと思って捨てられるものじゃないから、今ここにいるんでしょ、と。
「にこだって同じ。結局諦められなかった。だから……だからあの娘を信じたし、ここまで来た。でも、まだよ」
 まだなの、と呟く声は、
「きっとね、諦めさえしなければ、終わりもゴールもないのよ。だからにこは行くの」
 それが何処だとしても、どれだけ遠くても。
「——行きたいと思った場所に」
 揺らがない瞳で、前を見据えて、彼女はそう言い切った。
 先輩・矢澤にこの顔をして、満面の笑みを浮かべて。




「と、いうわけで、よ」
 そんな感動のシーンもほんの一瞬、次の瞬間には、途端にさっきまでの先輩然とした態度はどこへやら、いつものにこちゃんがそこにいた。
「どっかのお馬鹿さんリーダーがさぼってる間に、にこは凛と花陽と活動することにしたから、よろしくね」
「よろしくって……」
「絵里はμ'sが活動休止って言っただけでしょ? だったらにこたちがどこで何をしたっていいのよ」
 これからはにこの時代なんだから、とかなんとか、変な気合の入りよう。うん、まあ、いい悪いはともかく、こういうポジティブさ、本当は見習わないといけない、のかしら。
 ……私には向いてなさそうだけど。
 そんなことを思いつつ、
「私は誘ってくれないんだ」
 冗談めかしてそう言ってみると、一瞬きょとんとした顔をするにこ先輩。そう。こういうのでいいんだ、私たちの関係は。頼ったり頼られたり、そういうこともたまにはあるけれど。

「真姫はもう放っておいても大丈夫そうじゃない。それに、他にやっとくこと、あるでしょ?」
「他に?」
「そうよ」
 今度は力強い笑み——いつもの彼女だ——で言い切って、びしっとこちらを指差してくる。
「アンタにしか出来ないこと。その曲——」
 一拍置いて。
「——ちゃんとみんなで、μ'sで歌えるように準備しとくのよ!」
 ……本当、時々こういうことを言うから、この『先輩』はずるいと思う。
「任せといて。次のライブまでには間に合わせるわ、必ず」
「とーぜん! 間に合わなかったらにこが許さないんだから」
「別に、にこちゃんに許してもらわなくてもいいんだけど?」
「アンタね……いいわ、その時はにこたちにも曲、作ってもらうんだから!」
 覚えときなさいよ、なんて捨て台詞を残して、小さな身体から有り余るエネルギーを振りまきつつ、私たちμ'sの誇るマスコット、兼、愛すべき部長は音楽室から出て行った。本気で怒っているわけじゃないんだろうけど、あとで何か埋め合わせをしておこう。
 それはそれとして。
 曲、ね。別にわざわざ頼まれなくても作るのは構わないんだけど。
「にこちゃんに凜に花陽、か」
 とびきり楽しいそれになりそうなのは間違いない……でも、それはまたあとで考えよう。
 まずは。
「これを完成させないと、ね。……さあ、どうしようかしら」
 口にそう出してはみるけれど、そのイメージは既に私の中にある。
 ここはまだゴールじゃない、終われない、終わらせない、終わりたくない。
 迷ってた答えはまだないけれど、それでも。
 今はまだ見えないこの先へ。
「……きっと」
 うん、そう。きっと、みんなで一緒にいくんだ。
 いつか、それぞれの場所で、それぞれのゴールを見つける日が来るとしても。
 まだ、その時じゃない。
 雨も風も嵐も受け止めて、この今を楽しもう。
 振り返るには早過ぎる。
「愛してるばんざーい、ね」
 我ながら、書いた時は気恥ずかしくしょうがなかったそのフレーズが、こんなに頼もしく思える日が来るなんて。
「いいわ、やってやろうじゃない」
 昨日に手をふって、前を向いて、この今を信じて。
 私の——私たちの音楽は、まだ、終わらない。